2016-08-10

李信22歳(紀元前241年)

 この年、秦は合従軍に攻められました。しかし、史記の中でも始皇帝本紀、趙世家、春申君列伝で記述内容が異なるので実際どうだったかは推理するしかありません。
 ・始皇帝本紀:韓、魏、趙、衛、楚が攻めた。寿陵を取った。
  秦が兵を出したら退いた。衛を刈った。
 ・趙世家:趙将の龐煖(ほうけん)が趙、楚、魏、燕の精鋭を率いて、
  秦の蕞(さい)を攻めた。抜けなかった。斉を攻め饒安を取った。
 ・春申君列伝:春申君が連合軍を率いて函谷関(かんこくかん)に押し寄せた。
  反撃され敗走した。
 ・魏世家:秦が朝歌を抜いた

 色々考えた末、私としては、
  ・春申君が韓、魏、趙、衛、楚の連合軍を率いて、函谷関から攻め入り、寿陵を取った。
   寿陵のすぐ先の蕞は抜けなかった。
  ・その後反撃されて敗走し、衛(国都は濮陽)は刈られ、魏の朝歌も抜かれてしまった。
  ・別に、趙将が4カ国軍を率いて斉を攻め饒安を取った。
 ということなら無理なく当てはまるのではと思います。

 つまり函谷関では戦いが無かったか、たいした戦いでは無かった可能性があります。五カ国軍はすぐに寿陵まで到達したものの、その先の蕞が抜けなかったのでしょう。ちくま学芸文庫版(小竹文夫/小竹武夫訳)では、蕞は陝西省 臨潼県となっていて、寿陵(始皇帝が生前に造営していた自分の墓陵)の1里(4km)先にあります。臨潼県の南側は、驪山(りざん)がそびえているので、南から攻めたということはないはずです。
 こうは考えたものの、私は歴史の専門家ではないので実際のところは分かりません。なので、ストーリとしては一応函谷関で追い返すということにして、寿陵と蕞は省略させてもらいました。某マンガに比べるとわずか3ページ程度で物足りないかもしれませんが、史記の記述(各数行)よりは多いということでご容赦ください。

 その他の地名の補足:
■鄢(えん)、許(きょ)は前年に秦が魏から奪った。そのすぐ近くに楚の国都陳があり、五カ国軍が失敗すると寿春へ遷都した。
■臨淄(りんし)は斉の国都。一時はこの近くまで攻め込まれた。
■雍は秦の旧都。趙姫がこもる。
■外黄(がいこう)で、張耳が嫁をもらう。



大きな地図で見たい方はこのリンクで→22歳(紀元前241年)

テーマ : 歴史・時代小説
ジャンル : 本・雑誌

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

浅水伸彦

Author:浅水伸彦
李信の小説を読みたいのになかなか出てこないので、自分で書いてしまいました。

最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR