2015-07-19

昌平君の生涯

 昌平君は秦軍の強化に努めた人物ですが、表立った戦功は嫪毐(ろうあい)の叛乱を収めた程度であまり出番がありません。最後は秦を離脱し楚王として担がれますが、すぐに敗れて亡くなります。史記には経歴が詳しく書かれていないので、そこは想像するしかありません。以下、本書に書いてないことも含めて参考に書きます。

 紀元前272年(李信が生まれる10年前)、楚は秦と和平を結び、楚の太子熊元(ゆうげん、後の孝烈王)を人質として秦へ送ります[史記「楚世家」]。秦ではこれを丁重に迎え、昭襄王の娘を嫁がせました。その翌年生まれたのが、昌平君(名は不明)です。つまり、昌平君は楚の公族の身分で、生まれたときから秦で暮らしていました。
 紀元前263年(李信が生まれる前年)に楚王が没し、太子熊元は秦から脱出して楚に戻り孝烈王となります[史記「楚世家」]。秦は人質の脱出に怒り、楚を攻めようとしましたが、孝烈王は州の地を献上して謝罪したため和睦がなりました。この時、秦に残した昌平君(数えで10歳)はそのまま人質として拘留されることになったのです。
 人質とは言え昭襄王の娘の子であり、さらに秦の太子嬴柱(えいちゅう)が寵愛する華陽夫人(楚の公族出身)が目をかけたこともあり、昌平君は不自由なく育ちます。兵家の良い師に恵まれ、ついには才を認められて官職に就きます。
 嬴政(えいせい)が秦王になると、華陽太后のご機嫌を損ないたくない呂不韋(りょふい)が昌平君(数えで25歳)を軍略のトップにすえます。以来10年近く秦国の軍事強化に尽くすようになります。

 昌平君は34歳のときに昌文君(しょうぶんくん)とともに嫪毐の叛乱を収めます。その翌年、自立することを決めた嬴政は呂不韋を罷免し、軍略部も尉繚を登用して重用するようになります。昌平君は罷免こそされませんでしたが、重要な軍略については尉繚に下問されるようになったため、徐々に権勢が衰えていきました。
 42歳の時に、後ろ盾となっていた華陽太后が身罷り、昌平君は閑職へと追いやられます。そして46歳の時に、ついに中央からも追い払われて郢(えい)で暮らすことになりました。以来、憂さ晴らしの酒に浸る日々が続いていましたが、48歳の時、王翦に敗れた楚の項燕将軍から請われて楚王になります。しかし項燕は王翦の勢いを止めることが出来ず、昌平君はついに戦死してしまいます。

テーマ : 歴史・時代小説
ジャンル : 本・雑誌

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浅水伸彦

Author:浅水伸彦
李信の小説を読みたいのになかなか出てこないので、自分で書いてしまいました。

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