2014-07-20

壁将軍は存在したのか?

 紀元前239年、秦王の異母弟である嬴成蟜(えいせいきょう)が叛乱を起こしました。しかし史記の記述はあまりにあっさりしているため、多くの謎があります。

1.脈絡の見えない叛乱
 史記・始皇本紀には、まず「成蟜が軍を率いて趙を伐ち」、次に「成蟜が屯留(とんりゅう)の民を従えて叛乱」とあります。
 この2つの間に何があったか書かれて無いので、叛乱に至った経緯がまるで判りません。
 成蟜は叛乱が成功したらどうするつもりだったのでしょうか? 独立国家を作るのは無謀なので、趙へ帰属するつもりだったのでしょうか?

 一方、史記・趙世家には、同年、「長安君を饒(じょう)に封じた」との記述があります。成蟜も長安君と呼ばれていました。偶然同じ称号を持つ別人が封じられたのでしょうか? そんな偶然より、長安君成蟜が趙の封地をもらったと考える方が自然だという気がします。

 そう考えると、『成蟜が趙に亡命して饒に封じられ、趙の将軍として屯留の民を率いて秦国へ侵攻した』というのが真相なのかもしれません。
 もっとも本書(李信伝異聞)では、成蟜よりもその母(楚姫)がストーリーの中心になっているため、楚姫が趙と密約を結んで成蟜に叛乱を起こさせたという展開になっています。

2.壁死
 成蟜叛乱のときに将軍が死んだとの記述がありますが、「将軍壁が死んだ」、「将軍が壁死した(城内で死んだ)」と二通りの解釈があるようです。しかし後者の解釈は、どの将軍が死んだのか不明だし、壁死という死に方をわざわざ書く必要があるのかも疑問です。

 もしかしたら、史記の作者(司馬遷)が、「壁将軍が壁死した」という事跡を茶目っ気だして、両方の意味になるように短く書いたのかもしれせんね(^^;
 ともかく本書では、壁将軍が城内で死ぬストーリーになっています。

3.壁将軍
 壁将軍が存在していたとしても、成蟜側の将軍なのか、叛乱鎮圧に向かった将軍なのか判然としません。鍵を握るのは将軍が死んだ後に再度叛乱が起きるという史記の記述です。
 この部分も、「将軍の部下の蒲鄗(ほこう)が叛乱した」、「将軍が死んだので蒲鄗の民が叛乱した」という二通りの解釈があるようです。

 前者なら、壁は成蟜側の将軍であって、その遺志をついで蒲鄗が叛乱したと考えられます。後者なら、鎮圧軍の将軍がいなくなったので、その隙を狙って蒲鄗の民が叛乱したとも考えられます。

 本書では前者の解釈に従っています。成蟜の護衛として長く仕えていたということにし、さかのぼって色々ストーリーを練ってみました。結局妄想が爆発して、後に始皇帝となる嬴政(えいせい)を暗殺するために楚姫が呼び寄せた暗碧衆(あんへきしゅう)の頭領だったということになってしまいました(うーむ)。

テーマ : 歴史・時代小説
ジャンル : 本・雑誌

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浅水伸彦

Author:浅水伸彦
李信の小説を読みたいのになかなか出てこないので、自分で書いてしまいました。

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