2014-07-05

羌瘣(きょうかい)が姜維の先祖に?

 李信には三人の義兄弟がいます。その一人の羌瘣(きょうかい)について語るには、まず秦国の西に在住する羌族について述べねばなりますまい。
 中国周辺にはいろいろな民族がいて、裕福な中原(中国の中心地帯)を虎視眈々と狙っていました。有名なのは北方の匈奴(きょうど)で、史記にも列伝が作られているほどです。一方、西の羌(族)については後漢書にようやく列伝が記載される程度で、少なくとも私の中では知名度はいまひとつでした。

 しかし歴史上の登場は匈奴より早く、紀元前1046年ごろ周王朝が殷王朝を倒したときに羌族が周に手を貸しています。この事跡から、始めは羌族は比較的友好的で羌瘣も羌族を率いて秦に協力していた、という設定で考えていました。しかし、秦帝国が築いた長城が西の羌族との境まで伸びているし、李信の子孫の李広将軍も羌族と戦っていることから、羌族は匈奴同様に秦を悩ます民族だったという方が自然であろうと考えるようになりました。

 このとき困ったのが羌瘣です。同じ羌姓で無関係のまま放っておくのも何となく気持ち悪く、罪を犯して同族から逃げたとか、羌姓でしっくりする背景をいろいろ考えてみました。でもあんまり良いストーリーは思いつかず、それならいっそ無関係であることを強調するストーリーにするかと考えました。まず秦王に「羌(族)は羌(瘣)をもって制す」と言わしめて両者を戦わせておいた上で、部下から見れば上官も敵も羌とあっては不信感が拭いきれず、ついに羌瘣が姜瘣に改姓せざるを得なかったとしました。

 その後、姜瘣は負傷して冀県(きけん)に引きこもり、そこで子孫が豪族として栄えると書きました。それ以上は書いてありませんが、三国志の熱烈なファンなら姜姓で冀県の豪族といえば英雄の姜維(きょうい)だろうと思い浮かべるかもしれません。さすがにこれは、こじつけが過ぎるとは思いましたが、李信と家族ぐるみのお付き合いとなった羌瘣に有名な子孫がいないのは寂しいなと思って、まぁこれぐらいの座興は許してねって感じで書きました。反発する人もいるかもしれませんので、はっきり先祖だとは書きませんでしたが(^^;

追伸(謎):キングダムの羌瘣ファンの人へ。ゴメンなさい、ゴメンなさい、ゴメンなさい(^^;

テーマ : 歴史・時代小説
ジャンル : 本・雑誌

2014-07-14

始皇帝を狙う後宮勢力

 後に始皇帝となる嬴政(えいせい)は、秦国の正当な血筋を引いてないような記述が史記にあります。それが本当なら後宮からも疎ましい存在と目されていたでしょう。史書はその点について言及していませんが、暗殺を企てられたとしても不思議はありません。

 下図は、後に荘襄王(そうじょうおう)と諡(おくりな)された秦国三十代目の王、嬴子楚(えいしそ)が即位した時点での後宮の人間関係です。子楚が王位につけたのは華陽太后のおかげだし、実母の夏太后もないがしろにできない存在だったでしょう。さらに子楚の実子を設けた楚姫は華陽太后に勧められて夫人とした点からも考えると、後宮全体としては反嬴政派が多かったと想像できます。

後宮勢力

 そもそも始皇帝が後宮から狙われているという考えは、史記に書かれている成蟜(せいきょう)の叛乱を考察する過程で生まれました。当時数えで18歳の成蟜が単独で叛乱するのは考えにくかったので、だれか協力者(あるいはそそのかした人)がいたのではないかと考えました。協力者を色々想像している内に、身近な母親が黒幕であったとする方が自然に思えてきました。
 そこで、成蟜の叛乱は楚姫を首謀者としてストーリーを構成しました。また嬴子に嫁いでから叛乱に至るまでの事跡をポツポツとちりばめました。その事跡の1つに暗碧衆(あんへきしゅう)という闇の集団を使った暗殺話もありますが、それは成蟜の叛乱で唐突に登場する壁(へき)将軍の伏線も兼ねています。

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ジャンル : 本・雑誌

2014-07-20

壁将軍は存在したのか?

 紀元前239年、秦王の異母弟である嬴成蟜(えいせいきょう)が叛乱を起こしました。しかし史記の記述はあまりにあっさりしているため、多くの謎があります。

1.脈絡の見えない叛乱
 史記・始皇本紀には、まず「成蟜が軍を率いて趙を伐ち」、次に「成蟜が屯留(とんりゅう)の民を従えて叛乱」とあります。
 この2つの間に何があったか書かれて無いので、叛乱に至った経緯がまるで判りません。
 成蟜は叛乱が成功したらどうするつもりだったのでしょうか? 独立国家を作るのは無謀なので、趙へ帰属するつもりだったのでしょうか?

 一方、史記・趙世家には、同年、「長安君を饒(じょう)に封じた」との記述があります。成蟜も長安君と呼ばれていました。偶然同じ称号を持つ別人が封じられたのでしょうか? そんな偶然より、長安君成蟜が趙の封地をもらったと考える方が自然だという気がします。

 そう考えると、『成蟜が趙に亡命して饒に封じられ、趙の将軍として屯留の民を率いて秦国へ侵攻した』というのが真相なのかもしれません。
 もっとも本書(李信伝異聞)では、成蟜よりもその母(楚姫)がストーリーの中心になっているため、楚姫が趙と密約を結んで成蟜に叛乱を起こさせたという展開になっています。

2.壁死
 成蟜叛乱のときに将軍が死んだとの記述がありますが、「将軍壁が死んだ」、「将軍が壁死した(城内で死んだ)」と二通りの解釈があるようです。しかし後者の解釈は、どの将軍が死んだのか不明だし、壁死という死に方をわざわざ書く必要があるのかも疑問です。

 もしかしたら、史記の作者(司馬遷)が、「壁将軍が壁死した」という事跡を茶目っ気だして、両方の意味になるように短く書いたのかもしれせんね(^^;
 ともかく本書では、壁将軍が城内で死ぬストーリーになっています。

3.壁将軍
 壁将軍が存在していたとしても、成蟜側の将軍なのか、叛乱鎮圧に向かった将軍なのか判然としません。鍵を握るのは将軍が死んだ後に再度叛乱が起きるという史記の記述です。
 この部分も、「将軍の部下の蒲鄗(ほこう)が叛乱した」、「将軍が死んだので蒲鄗の民が叛乱した」という二通りの解釈があるようです。

 前者なら、壁は成蟜側の将軍であって、その遺志をついで蒲鄗が叛乱したと考えられます。後者なら、鎮圧軍の将軍がいなくなったので、その隙を狙って蒲鄗の民が叛乱したとも考えられます。

 本書では前者の解釈に従っています。成蟜の護衛として長く仕えていたということにし、さかのぼって色々ストーリーを練ってみました。結局妄想が爆発して、後に始皇帝となる嬴政(えいせい)を暗殺するために楚姫が呼び寄せた暗碧衆(あんへきしゅう)の頭領だったということになってしまいました(うーむ)。

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2014-07-27

毛公は剣の達人・・

 戦国四君の一人、信陵君(しんりょうくん)が趙の邯鄲にいた時、毛公と薛公(せつこう)という二人の賢人と交わりを結びます。後に、信陵君の母国の魏が秦に侵攻されて危機に陥ったとき、魏からは帰国を促す使者が何度も来ました。しかし、信陵君は自国(魏)の将軍を斬ってその兵を率いて趙の救援にやってきたといういきさつがあるため、許されるはずが無いと思って使者に会わなかったのです。それどころか食客にも「使者を取り次ぐものは斬る」とまで言ったため、帰国を促す進言をする食客は一人もいませんでした。

 ところが、毛公と薛公は恐れることなく信陵君に会い、母国の危機を救わない非を咎めます。諭された信陵君は帰国し、結果的に五カ国連合軍を率いて秦を撃退します。秦王の嬴子楚(えいしそ、荘襄王)はその心労が加わってその年に身まかり、代わって嬴政(えいせい、始皇帝)が即位しました。つまりは、毛公と薛公の進言によって、歴史が大きく動いたといっても過言では無いでしょう。

 さて、それほど歴史に影響を与えた人物となると、進言だけで終わらせるはもったいないという気がします。もうちょっと人物の描写をしてみるかと思い、ストーリーを練ってみました。
 薛公の方は、残念ながら単独のストーリー1つしか思いつきませんでした。
 毛公の方は、剣の達人にして楊端和(ようたんわ、李信の義兄弟の一人)の剣の師匠という設定にしたところ、次々に色々な人物と関わって何度か登場することになりました(下図参照)。

毛公の関わり


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浅水伸彦

Author:浅水伸彦
李信の小説を読みたいのになかなか出てこないので、自分で書いてしまいました。

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